関西人Yeni.の横から失礼します。vol.6

Istanbul Navi 2021年5月号

 

 

イスラム世界では今、神聖なる断食月ラマザン明けを祝う『砂糖祭』(トルコ語:シェケル・バイラム)という祝祭日連休の真っ最中である。同時にトルコは、17日間という長期ロックダウンの真っ只中でもある。こうなると、日本の盆・正月的な国民的イベントのバイラムでも家族や親戚同士の訪問は叶わず、せいぜい携帯電話やタブレットから映像通話で繋がってバイラムの挨拶をし合うぐらいである。昨年もそうだったが、バイラム特有の風情が全くなく、寂しい。

前回のコラムでもロックダウンについて触れたように、都市間移動の禁止から始まって、飲食店の接客営業も禁止、食料など最低限の生活必需品の買い出し以外は外出は終日禁止である。なぜかアルコール類の販売も禁止され(恨みがましくまだ言い続ける)、続いて差し当たり必要ではないとみなされた電化製品、文房具、玩具、化粧品、工具などの販売も禁止された。そういう訳で様々な商品を扱う大型スーパーに行っても、買えるものとそうでないものがある。そこに陳列されているのにもかかわらず、だ。

そもそも最低限の生活必需品がなんであるかって、誰の基準で決めているのだろう。例えば、私はアル中ではないが、1年以上続いている厳しい自宅待機生活での数少ない楽しみがワイン晩酌である。これって私にとっては生活に欠かせないものなのに。じゃあ、なぜタバコは売ってよいのか?外でマスクを外して所構わずプハーッと煙を吐き出している喫煙者の方がよっぽど有害だろうに。例えば、私は当コラムのイラストを描くためや、受験生の息子の学校からメール送付されてくる模擬試験問題用紙を自宅で大量にプリントアウトする必要がある。イラスト用極太マジックのインクが切れた!コピー用紙が終わった!プリンターのインクが無くなった!ほら、私にとって文房具も生活必需品ではないか。……まぁ、言い出したらキリがないのだが、いちいち腑に落ちない措置である。

 

 

ところで、差し当たり生活に必要最低限でないもの、つまり「不要不急」として扱われてきたものに文化芸術活動がある。映画館や劇場は閉鎖されたままだし、コンサートや展覧会、各種フェスティバルにもそうは出掛けられない(一部野外やオンラインで開催されているのがまだ救いである)。ふらっと映画館で映画を観られないのが、好きなアーティストのコンサートに行けないのがこれほど辛いとは。感染しないように健康や食生活に留意することも勿論大事だが、魂の栄養は運動や食事からは決して摂れないのだ。

ごく個人的な話になるが、この「不要不急」について端的に表現した文章があるのでここで共有したい。私の従兄弟が昨年秋に地元奈良で、ある舞台公演をプロデュースした。彼は『鯨椅子project』という演劇活動を行うユニット団体を仕切っているのだが、公演パンフレットにこうメッセージを記している。

「……今回のコロナ禍の中、演劇は“不要不急”のものとして扱われています。それを前提として対策を取るようにともされてきました。僕に言わせれば、演劇は“不要不急”ではありません。“必要で重要”なものです。「もしクラスターが発生して、感染者・死亡者が出たらどうするんだ」と言われれば、「演劇を観たおかげで、助かった命がある」と言えます。断言できます。演劇のおかげで、芝居のおかげで、明日も頑張ろうと思えた経験があるので。……演劇はなくてはならないものだと、“必要で重要”なものだと発信し続けたいと思います。……」

トルコでも感染対策を十分に採りつつ、従兄弟の言葉を借りれば「必要で重要な」文化芸術活動を可能な限り継続してもらいたい。

文化芸術活動と並んで娯楽も「不要不急」と扱われて、披露宴などトルコの祝いの席に欠かせなかったダンサーやミュージシャン達も仕事を失い、苦境に立たされているという。このバイラムでも、あちこちを練り歩いて演奏し日銭を稼ごうとしているバンドが近所にやってきた。ズンチャカズンチャカチャカチャンチャン〜♫ しかし、ロックダウン中で住民にもお祝いムードは皆無。心付けを渡しに来る人もいない。妙に賑やかなトルコ民謡の調べも、閑散とした町にただ虚しく響くのだった。

ー了ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 読み切り![イスタンブール]/ トルコでこどもを育てています。

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